沖縄からベトナムにガラス工芸をもたらし、ベトナムに新たなガラス工芸の伝統を
- 2021/08/17
第二次世界大戦末期、米軍の上陸作戦で壊滅的な被害を受けた沖縄。戦後復興の中でガラス職人たちが立ち上げたガラス工場に進駐兵のもたらしたコカコーラやセブンアップの屑ガラスを材料にして色と気泡の入った手作りのガラス器が生まれた。それが琉球ガラスだ。
当初は駐留米軍の兵隊たちの注文で作っていたものが評判となり、お土産や輸出品として「琉球ガラス」は広まっていった。沖縄の日本返還後は沖縄観光ブームと相まって沖縄の特産品として本土からの観光客に人気の商品となった。
その「琉球ガラス」のベトナム工場、Vietnam Grass Craft Production(ハーナム省)の社長を務める稲嶺秀信が今回インタビューに応えてくれた。
稲嶺は1972年沖縄生まれ。「琉球ガラス村」の創業者の一人、稲嶺家の長男としてだった。親の勧めで中学校1年生から高校を卒業するまで熊本にある男子校・九州学院に進学した。「13歳で厳しい寮生活がはじまりましたが、勉学よりも自由きままな私生活を送ることを優先しました。当然大学受験には失敗し、卒業後は熊本の遊び仲間の親が経営する内装施工の仕事につきました」
20歳のとき、父親の勧めでアメリカ留学の話が持ち上がる。稲嶺は気乗りがしなかった。「アメリカには興味がなかったし、当時付き合っていた女性もいました。そもそも親の言いなりに中学生から寮生活を強いられ、反発する気持ちもありましたし」稲嶺はしかし留学の道を選ぶ。1993年のことだ。
留学は全くゼロからのスタートだった。稲嶺は約1年半の期間を英語の勉強に費やし、オレゴン大学に入学した。学費は親掛かりだったが、その分必死になって勉強した。英語学校や大学で友だちもできた、同じ留学生でも香港やインドネシア、タイの金持ちの子弟は『違うな』と率直に感じたという稲嶺。「語学を学ぶこと以上に、アメリカでは様々なバックグラウンドを持つ人々とふれあうことで、相手の国の歴史、文化、宗教に対し敬意を持って接すること、そして自分の国の価値観を押し付けてはいけないことを学びました」
大学を卒業し、1998年に日本に戻った。沖縄には戻らず、、東京の会社に自ら応募、面接し就職した。もう親の世話にはなりたくないとの思いだった。就職先は外資系のコンサルティング会社だった。
そして2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生する。ニューヨークのワールドトレードセンターに犯人が乗っ取った民間航空機2機を衝突させ、米国防省(ペンタゴン)にも1機が突入した。アフガニスタンのイスラム原理主義者・アルカーイダの起こしたテロだった。
日本全国の米軍基地のうち、その7割が集中する沖縄。「9月11日の事件のおかげで、沖縄は次のテロの標的になる可能性があるとされ、修学旅行をはじめ本土からの観光客が激減しました。父の経営する『琉球ガラス村』も経営危機に陥りました。また父親も体調を崩し、母親から東京の仕事を辞めて沖縄に戻ってこいと諭されました」抗いきれず2002年に沖縄に戻り、父親の事業を手伝うこととなった。稲嶺、30歳の年だ。
「琉球ガラス村」は琉球ガラス工房4社が合併してできた琉球ガラス工芸協業組合が運営していた。父親の世代の創業メンバーと一緒に働くことになる。「東京の大企業から沖縄の中小企業の経営に携わるようになってカルチャーショックを受けました。社風やルール、常識、仕事のやり方、そして今でいうコンプライアンスの問題、ありとあらゆることで旧経営陣と衝突していました」と稲嶺。「異国の地で語学だけでなくたくさんのことを学び、新しい取組みをしたいと意気込んでいましたが、態度はでかいし、まさに若気の至りなんですが」
稲嶺の父は1995年、共同経営者の反対を押し切ってハノイに100%外資のガラス工場を設立していた。ベトナムがASEAN加盟とアメリカとの国交正常化を果たした年だ。ベトナム・ハノイに外国資本100%出資企業の工場が設立されたのは同社で3例目だったという。
「91年から93年にかけて中国、タイへの工場進出も検討していたようですが、いずれも失敗し、最終的にベトナムに進出を決めたのです。ベトナムは沖縄と気候や雰囲気がよく似ている。特に女性が働きもので、男はゆったりと構え、祖先信仰に篤く、仏教や中国文化の影響を受けていて、ベトナムとの歴史的な関係も深い、進出すれば必ずうまくいくという父の直感からだったといいます」何よりもガラスの原料となる「珪砂」がベトナムに豊富だったことも進出の決め手となった。
「ベトナム工場の製品は沖縄の営業の立場からすると品質に問題があったり、販売が落ち込んでいるのに発注してもいない製品を送りこんできて在庫を増やしているなどと、生産現場と営業とのよくある対立ですよね。そんなことから私はベトナムの社長ともよく喧嘩しました」
稲嶺も2014年からベトナムの生産拠点に通いはじめた。ハノイのロンビエン地区は周囲が宅地化されるにしたがって、工場用地の借地期限が2020年までとあって、2018年にはベトナム北部のハーナム省に工場を移転することを決定した。ベトナム国内での製品販売や、お客様が工場訪問に訪れてもらえるように観光バスや来客用の駐車場を設け、敷地内では吹きガラス体験を楽しんだり、カフェでリラックスもできるような工場にした。
悩みもある。「ガラス職人を育てるには2、3年では十分でなく、10年はかかります。でもベトナム人従業員は隣の工場が10万ドンでも高ければ、そちらへ転職してしまう。10年は難しいにしても3年かけて生活がどのように向上するのかを具体的に示し、教育プログラムもつくっています」。ベトナム人の職人たちが技術を器用こなすだけでなく、そこに創意工夫をする喜びを知り、ガラス工芸という仕事をいかに好きになってもらえるか、それが鍵だと稲嶺はいう。
ベトナム進出から四半世紀。「ベトナムでお世話になった人たちにガラス工芸を通じて恩返しがしたいと思っています。沖縄本社はベトナム人職人の力によって組織を成長させることができましたから。『琉球ガラス村』というのは父たちの世代が作ってきたビジネスモデル。自分はベトナムの職人による新たなベトナム独自のガラス工芸を育成し、琉球ガラスとは異なる独自のブランドを育てたいんです、自身のライフワークとして」
1995年の創立時の社名は「ベトナム琉球文化工芸村」だった。今の社名、Vietnam Glass Craft Productionには「琉球」の文字はない。ベトナムの新たな伝統をつくる気概にもえた稲嶺の瞳にはベトナム職人のつくるガラスの器の輝きがみえているに違いない。
文=新妻東一
稲嶺秀信
Vietnam Glass Craft Production
プロフィール
1972年沖縄生まれ。1984年熊本の九州学院中高一貫校に入学。卒業後は内装施工会社に就職。1993年アメリカに留学し、英語学校を経てオレゴン大学に入学。1998年大学卒業後帰国し、東京のデロイト系コンサルティング会社に就職。2002年沖縄に戻り「琉球ガラス村」の経営陣に加わる。2014年からハノイのベトナム琉球文化工芸村(琉球ガラス・ベトナム工場)へも通うようになる。2018年ハーナム省に工場を移転、社名もVietnam Glass Craft Productionとする。現在、同社社長。
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