鳶(とび)職を続けたいという技能実習生のために「ノリ」でベトナム進出/KOBAYASHI VIETNAM・小林健太郎

 私は高いところが苦手だ。自分が高いところへのぼるのみならず、他人が高いところにのぼっているところをみるだけでも、股間のあたりがきゅ〜んとするほどの高所恐怖症なのだ。建築業、なかでも足場や鉄骨の組立て、高層ビルや橋梁工事にたずさわる鳶(とび)といわれる人々はまさに「鳥人間」、高所をものともせず作業に勤しんでおられ、尊敬に値する。
 今回この日系企業インタビューに応えてくれたのは、この鳶職を自らの天職とし、さらにベトナムにおいても安全な職場環境をつくるためにベトナムで鳶土工業の会社を設立した小林健太郎だ。

 1981年横浜市に生まれた小林。高校生のときに道路や土木工事のアルバイトをし、肉体労働の楽しさを知る。卒業後、小林は鳶・土工業の会社に就職した。
 「自分は世に言う、通勤電車に揺られて会社に通勤、デスクワークが中心のサラリーマンはつとまらないなと思っていました。鳶の親方もカッコよくて、サラリーマンより気楽に働けるかなと思って」と小林はいう。

 鳶職は高所での危険な作業が伴うが、建築業のなかでも花形職業であるとの誇りもあった。最初は基礎からはじまる現場の仕事も、建設がすすみ1階、2階、5階、10階へと高さが少しづつ増す。自ら建設しているビルが50階ぐらいの高さになっても、その高さがそれほど怖いとは思わなくなる。小林はそれを「慣れ」だという。

 鳶職は同時に職人の世界でもある。新入りには厳しい。「おいこのやろう」「バカだな」と現場で怒声が飛ぶのも日常茶飯事だった。小林と同級生だった幼馴染も同じ会社に就職し鳶職となった。その友人は先輩たちの仕打ちに耐えかねて、「くやしい、自分をののしったやつらをいつか見返してやる」と将来は鳶職としての起業、独立を夢見ていた。

 小林が20歳のとき。いつもと同じようにその幼なじみの友人と現場で働いていた。二人で駄話をしながら作業していた。と突如彼が小林の視界から消えた。一瞬何がおきたのかわからなかった。二人のいた現場は地上から15mの高さにあった。友人はその高さを墜落したのだ。友人はあっけなく命を落とした。

 友人の葬式の際、かれは弔辞を述べた。そこで「お前が夢見て果たすことのできなかった鳶職の独立、起業を自分がかわりに成し遂げる」と遺族と友人の前に宣言した。

 4年間辛抱して働き、鳶としての技術と知識を一通り身につけた小林は幼なじみの遺志をついで、鳶の個人事業主として独立した。22歳の年だった。当初は4名の鳶職人を雇用しスタートした。2006年には法人化も果たした。社名も「小林組」と名付けた。8名の従業員を抱えていたが、すぐに25名もの大所帯になった。

 時代も彼の事業の発展を後押しした。時はリーマンショックで、求人を出せば応募がかなりあった。同時に建設業界全体は民主党政権による公共事業削減のあおりも受けて建設不況に陥っていた。「でも不思議なことに自分の会社には仕事があったんですよね」という小林。その言葉にてらいはない。

 当時、小林さんはどんな親方だったんですか、私が尋ねると「めちゃくちゃ厳しい親方だったと思いますよ。なにしろ命にかかわる仕事ですし。仕事の教え方もしらなかったんですよ。自分は『おいこのやろう、おまえはバカだな』といった口の悪い職人かたぎの鳶の先輩からしか仕事を習ったことがなかったので」と温和な小林が苦笑した。共に働いた友人を事故で失った経験から職場の安全の確保には人一倍厳しかったに違いない。

 2014年、小林は先輩の鳶の会社で働いていたベトナム人技能実習生と肩を並べてはじめて仕事をした。「彼らの仕事ぶりがものすごいんですよ。とにかくかんばるんです。ハングリー精神というんですかね、日本でしっかり仕事を稼いで金を手にするんだという、その一生懸命さに心うたれんです」そう小林はいう。

 人手不足の解消という動機もあったが、なによりもベトナム人技能実習生を自分の会社でやとって日本人の若い鳶職人たちに『刺激』を与えたい、という気持ちもあった。2016年、彼はベトナムから技能実習生3名を雇い入れた。

 日本の監理団体を通じてハノイの送出し機関に出向き、候補者の面接、実技試験を経て、3名のベトナム人の若者を技能実習生として受け入れた。3名とも20代前半、ベトナム北部の出身者だった。

 「この3名は自分が想像した通り、よく働いてくれました。本当にありがたいと思いました。そして、ひとなつっこいんです。かわいいなと思いましたね」

 ある日のこと、技能実習生から相談があると小林は声をかけられた。給金の前借りでもしたいのかと思って話をきいた。彼らは近々にベトナムに帰るが、ベトナムでも同じ仕事がしたい、しかしベトナムにおいては建設作業者の安全基準は日本よりかなり低いため、あぶなくて仕事が続けられない、そう小林に訴えたのだ。

 「外国人技能実習制度は、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う『人づくり』に協力することを目的とする」と日本政府は説明しているが、実習生の帰国後、日本で習得した技術・知識を用いて就業するものは半数にも満たないという。せっかく3年以上働いて身につけた技術・知識が母国で生かされないのでは技能実習生制度の意味がない、そう小林は考えた。

 ベトナムで鳶の仕事を実習生が続けるためには仕事の安全面と作業の品質を共に高め、安心して彼らが働ける場を提供したいと、彼はベトナムに鳶土工事を請け負う会社を設立、帰国を予定していた技能実習生たちの受入先とすることを小林は決意した。

 2020年1月に会社を設立した。しかし同年3月にはコロナ感染で日本とベトナム感の往来ができなくなってしまった。実習生たちの帰国の日が迫ってくる。それにあわせて会社を稼働させなければならない。思い余った彼はベトナム日本商工会議所の会員優先だという8月の特別便に関係諸機関に頼み込んで搭乗させてもらい、渡越した。同年8月のことだった。

 以来、小林は技能実習からハノイに戻った2名の実習生と共に事業を開始した。フェイスブックで評判を聞きつけて鳶職人も集まり、現在では15名の社員を抱えている。コバヤシ・ベトナムの「親方」たる小林は毎日のようにハノイ近県の現場へ通っている。

 最近、技能実習生に対して暴力がふるわれたとして告発された建設会社もあった。
「彼らは技能実習生という『ヒト』がきたのではなく、人手不足を解消し低賃金でも働き、会社の儲けを増やす『モノ』や『機械』が来たとしか思ってないんでしょうね」と小林は嘆く。

 ベトナム人技能実習生、職人に対しては「やさしい日本語」でゆっくりしゃべることを小林は心掛けているという。現場ではなるべく「てにをは」を交えず「単語」でのみ伝える。「ばらす」「つける」などの作業、動作を表す動詞も文章にせず、単体で使うようにしている。外国人と共に働くためには日本人の方がやさしい日本語をつかうべきだと小林はいう。

 最後に小林に将来の夢は?と質問してみた。「若者のようにバックパッカーとして世界一周旅行がしたいですね。世界の人々の暮らしぶりを見てみたいんです。飛行機でなく陸路を車で移動し国境越えもしたいです。世界中をくまなくみてまわれたら、死ぬときに自分の人生はいい人生だった、そう思えるじゃないですか」と小林は笑った。

 小林は技能実習生たちがベトナムに戻り、自分のもとから離れて独立し鳶職人として活躍するように促したい、そう願う。ベトナム人鳶職人とともに小林が汗を流す日々が当面続きそうだ。

文=新妻東一

小林健太郎(中央)

KOBAYASHI VIETNAM
CEO
小林健太郎

プロフィール

1981年横浜市生まれ。高校卒業後、鳶土工業の会社に就職。2003年独立。2006年に法人化し株式会社小林組を設立。2014年ベトナム人鳶の技能実習生と共に働き彼らのハングリーさに圧倒され、2016年にベトナム人技能実習生の受け入れを開始。2020年1月ベトナムに鳶土工業の会社KOBAYASHI VIETNAMを設立。8月にコロナ禍に訪越し、会社を稼働させ、帰国した技能実習生2名を受け入れ、作業者の安全を確保しつつ品質の高い鳶土工業をめざす。

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