日本との関係深いベトナム中部の街、日本人町のあったホイアン

 米国「トラベル+レジャー」誌はコロナが明けたらぜひ行きたいホテルと観光地の読者投票ランキング”The World’s Best Awards2021″を発表しました。アジアトップ15ではインドのウダイプール、インドネシアのウブド、日本の京都などの都市と並んで「ホイアン」は堂々第13位にランキングされました。

 木造の建築に黄色い壁が施され、ブーゲンビリアなどの鮮やかな花が軒先を覆い、赤い瓦屋根が印象的な街です。そのフォトジェニックな街並みは国内外の観光客を魅了し、多くのファッション写真のロケ地として取り上げられています。2018年には日本の音楽グループ乃木坂46「ジコチューで行こう!」のミュージックビデオのロケ地にも選ばれ、ランタンの美しい夜のホイアンを背景に齋藤飛鳥さんはじめメンバーがポーズをとるシーンも撮影されました。
 今回はこの世界の人々を魅惑してやまないホイアンをウェブ誌上にてご紹介しましょう。

16〜17世紀に日本との朱印船貿易で栄え、日本人町のあったホイアン

日本から寄贈された御朱印船の模型
ホイアンに日本から寄贈された御朱印船の模型

 16世紀末、秀吉が明を侵略するために朝鮮に二度に渡り出兵し、朝鮮や明国の反撃に遭い、手痛い失敗をきたします。それを傍目で見ていた家康は朝鮮から連行した陶工ら朝鮮人を帰国させ、朝鮮通信使を再開し、朝鮮との外交関係を復活させます。

 明国との直接の交易関係がなかった日本の江戸幕府は当時の東南アジア諸国に手紙を送り、従来の倭寇や密貿易と区別し、幕府の朱印状を有する商人とのみ交易を行うよう求めました。これを朱印船貿易と言い、その手紙の一つは当時の中部を支配していた広南阮氏に送られました。1601年のことです。

 家康率いる江戸幕府は秀吉のとった武力による侵略の失敗から「平和外交」に転換し貿易の独占を目指しました。当時、日本が欲しかったのは明国の絹織物や生糸でした。それを東南アジアの諸国を経由して買付けたのです。日本は代わりに豊富に産出した銀を輸出しました。

 この時期には日本人の海外進出も華々しく、東南アジア20ヶ所に日本人町が設けられました。朱印船貿易が開始された17世紀初めから海外渡航禁止令が強化され「鎖国」が始まるまでの間に延べ10万人が出国したと言われています。

 その日本人町の一つのあった町がホイアンです。日本人町には貿易を行う商人のほか、海賊、船員、戦国時代が終わり失職した侍たち、追放されたキリシタンでした。

 特に日本からやってきたキリシタンはキリスト教の布教を行う宣教師として活躍した人々もありました。ホイアンでは日本人が使用していた日本語のローマ字表記にヒントを得て、外国人宣教師たちがベトナム人への宣教のためベトナム語のローマ字表記であるクォックグーを生み出したと言われています。

夜のホイアン目抜き通り
夜のホイアン目抜き通り

 ホイアンの現在ある街並みは日本人が鎖国によって日本人町が廃れた後に主に中国人商人らによって建てられた家屋です。古いものでは17世紀に遡ることができるようです。

 日本人町の名残を残す建物としては来遠橋、別名「日本橋」という屋根付きの橋があります。中国式に建て替えられてはいますが、元は16世紀末に日本人居留民が建てたものと伝えられ、その名称に名残があります。この橋は中国人町と日本人町の間をつなぐ交易のための橋でした。日本橋の両端には犬と猿の石像が据えられています。これは何も「犬猿の仲」という意味するものでなく、一説にはこの橋の建設には申(さる)年から戌(いぬ)年までかかったからと伝えられています。

 徳川家3代目将軍家光の時代に副将軍として名高い水戸光圀公の庇護を受けた民国からの亡命儒学者・朱舜水は清国を倒し明国を再興するための軍事費を稼ぐため、ホイアンに滞在し貿易を行ったとも伝えられています。願い叶わず日本へ亡命するにあたって朱舜水は自らの所持品をホイアンの日本人たちに分け与えました。

 歴史ある街並みにかつてホイアンに済んだ日本人の姿を忍びつつ、川べりのカフェで川面を眺め、コーヒーやビールを傾け、旅情にひたるのもまた一興です。

4世紀から13世紀のチャンパ王国の遺構、ミーソン聖域

ミーソン聖域の遺構
ミーソン聖域の遺構

 ホイアンからなら車で約1時間、距離にして40kmのところにかつてのチャンパ王国の首都であり、現在もその遺跡群が立ち並ぶ「ミーソン聖域」があります。

 チャンパ王国は2世紀から19世紀まで、現在のベトナムの版図の中部から中南部にかけて存在した王国で、マレー語などを含むオーストロアジア系のチャム族を主とする民族の国家でした。

 中国の史書にも登場するほどの強壮な民族で、中国の歴代王朝にも反抗し、ベトナム北部にも侵攻、現在のハノイあたりまで攻め込んだ時代もあり、ベトナムの歴代王朝を悩ませてきました。

 このチャンパ国は日本との関係には古いものがあります。8世紀「林邑国」(チャンパ王国の中国名)の仏哲が南インドの僧・菩提遷那(ボディセーナ)とともに日本に渡り、奈良の大安寺でサンスクリット語の教授を行い、742年の東大寺大仏開眼法会において舞をもって供養を行ったと伝えられています。その後、仏哲の伝えた音楽と舞踏は「林邑楽」として後世に伝えられ、雅楽の重要な一部分となりました。

 チャンパ王国ではインドからの移民を受け入れ、仏教やヒンディー教を受容していました。サンスクリットによる碑文も残されていますので林邑国、すなわちチャンパ王国の人々はサンスクリット語にも通じていたのです。

 チャンパ王国の人々は海上の移動にも長けた海洋民族でもありました。周辺の国々との交易も行い、豊かだったのはその貿易のおかげでした。

ミーソン聖域の遺構
ミーソン聖域の遺構

 チャンパ王国は琉球王国との交易もあり、人的交流も盛んでした。江戸期の茶人が茶器を包むために好んで使用した名物裂(きれ)の中には「チャンパ裂」と呼ばれる縞柄の生地が珍重されました。チャンパ裂とはチャンパ王国産、あるいはチャンパ王国からもたらされた生地という意味です。ちなみに縞模様の「しま」とは元々中国や朝鮮半島からもたらされた「唐物」「高来物」と区別して南の島々からもたらされた「島物」「島渡り」という言葉からきていると言われています。当時のベトナムなどからもたらされた縞模様の生地は縞模様にその特徴があったためだそうです。

 ミーソン聖域はチャンパ王国の中心が中部にあった当時の4世紀から13世紀にあった頃の遺構、遺跡です。東南アジアのアンコール、パガン、ボロブドゥールなどの遺跡に並ぶ物であるとの評価を受けています。ヒンドゥー教シバ信仰の聖地として、レンガ積みの塔がいくつか残されています。フランス人によって発見された当時は70もの祠堂や建築物が残っていたそうですが、ベトナム戦争中に空爆でその多くが破壊されてしまいました。しかし残された建築物は建造から1000年以上経ってもその形を保っていることから、チャンパ王国の建築技術の高さを示しています。

 日本とも関係の深いチャンパ王国。ベトナム各地に遺跡を残していますが、その中でも最も重要な遺跡の一つ、ミーソン聖域を訪れて悠久の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

文=新妻東一

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